2010年 8月 09日
日中戦争時、連合国側から中国まで軍事物資が運ばれていたビルマ公路というルートがあった。ビルマのラングーンから荷揚げされた物資はマンダレー、シャン州、雲南を通り重慶まで伸びていた。別名、援蒋ルートとも呼ばれていた。日本軍が当時英国領だったビルマへ進軍したのは、このルートを封鎖するためでもあった。
マンダレーで車をチャーターし、一気に中国国境の町ムセへ向かった。中国側は瑞麗だ。現代のビルマ公路はビルマでは最も整備された道路だった。標高1500mほどの高原が続くシャン州を車は気持ちよく走った。物資を満載した大型トラックと次々にすれ違う。ほとんどが日本の中古車だ。
マンダレーを出て12時間ほど、国境の町ムセはビルマで最も明るい町だった。ヤンゴンをはじめ、ほとんどの町で計画停電が行われているビルマでは珍しく、24時間電気が通っていた。電気は中国側から送電されているのだ。携帯電話は電話機も電話会社も中国。中国へ電話すると国内電話扱いで、ムセ市内への通話は国際電話になってしまう。紙幣も中国人民元が利用可能だ。中国人向けカジノの建設現場へ行くと、労働者は全て中国人だった。ムセは一種の中国租界になっていた。「10年もするとムセは中国になってしまう」と、ビルマ人の役人が寂しそうに言っていた。
ムセからの帰り、新しくできたパゴダに寄ってみた。このパゴダができたきっかけは面白い。中国からの依頼でマンダレーで大きな仏像が作られた。完成後、トラックで中国へ向かったが、メイミョ(ピンウーリン)でこのトラックが横転した。クレーンを持ってきても動かない。これが話題になり、多くの人が集まりお布施をするようになった。そして、「仏像は中国に行きたくないんだ」という噂が広がるようになった。結局、横転した場所のすぐ近くに仏像を納める大きなマハアントゥーガンタ・パゴダが造られた。
「中国に行きたくない仏像」というのが面白い。巨大な中国に飲み込まれようとしているビルマ、その恐れがこの噂の中に込められているように思う。70年前、ビルマ公路を通って大量の物資が中国へと通っていった。現代、それが逆流するかのように中国からの大量の製品が流れ込んでいる。70年前は戦争に巻き込まれ、現代は中国に飲み込まれようとしている。
ところで、このビルマ公路で写真に関して面白い体験をした。パンサインというムセの隣の小さな国境の町でのことだ。カジノとは呼べないような小さな賭博場に立ち寄ってしばらく写真を撮っていた。パンサインはビルマ側の町だが、その賭博場のディーラーも客も全員中国人だった。立ち去ろうとしたそのとき、賭博場の責任者に呼び止められてしまった。彼は撮影したフィルムを渡せと言う。渡せ渡さないでしばらくもめたが、結局渡すことになった。後でそのフィルムが私の手に戻ってきのだが、条件がひとつあった。「写真をどこにも公表しない」ことが条件だった。男同士の約束をしてしまったので、残念ながら写真を出せない。ちなみに、ディーラー役の中国人女性はなかなかの美人だった。
このときのことをまとめた文章「ビルマ公路2000」がある。合わせて読んでほしい。