2010年 7月 31日
新年祭には外国人でも行きやすいナガだが、それ以外で訪れるとなると許可をとるのが非常に難しい。一部地域では時々反政府軍による戦いが行われているし、レイシやラヘーなどの新年祭が行われる大きな村から奥には、徒歩でしか行けないからだ。
「ソムラへ行くよ」とジョロに言った私であったが、インド国境に近い彼の村に行くのは許可の問題で外国人の私には非常に難しかった。しかし、いつしか時が解決する。数年後、運良く許可のとれた私はポーターたちと一緒に村へ向かった。レイシからソムラまで片道4日間、車が走ることができるような道などない。全て徒歩だ。やっと峠を越えたら谷まで下りてまた峠をめざす。その繰り返しだった。
途中の村々で歓迎された。外国人と会うのは戦後初めての人たちばかりだ。小さな村を通るたびに小休止し、米や粟で作られた酒を飲む。飲み過ぎると歩けなくなるのでそこそこにしとく。お礼に村人たちの記念写真を撮る。村の人たちにとって、生まれて初めての写真なんだろう。村中の人たちが集まってきたが、一度には入りきれない。二度三度とシャッターを切った。帰国後、人数分の写真を送るのは大変だったが、みんなの家宝になれば私もうれしい。
私が歩いたのは、戦時中インパール作戦で多くの日本兵が通っていったルートだった。ある老人は言った。「私の父が日本兵たちにインドへ行く道を教えた。でも、日本兵は一人も戻ってこなかった」。ある村では、「この足踏み脱穀機、日本兵に教わったんだ」。ナガ族の中では、戦争の日本の記憶がそのまま残っていた。
夜になると村の男たちと酒を飲みかわす。出てきた酒は見た目はカルピスのように白っぽく、酸味が強い。アルコールはビールより弱い。それを竹の筒や牛の角に入れて一気に飲む。酔いがまわると叫び声をあげる。それは人の声というよりオオカミの遠吠えに近い。「教会に行くと、酒は飲むなと言われる」と愚痴っていたオヤジも吠えている。キリスト教化が進んでいるナガでも酒の力は衰えていないようだ。
レイシを出て4日目、ソムラに着いた。ソムラはこのあたりでは大きな村でインド国境まで地元の人の足で1日足らずだという。レイシからここまで歩いてきて不思議に思ったことがある。インド国境に近づくほど山の緑が薄くなってきていた。ナガでの農業は焼き畑が中心だ。木々が少ないということは人の密度が高いということだ。ナガでは「山奥」と言う言葉は適切ではなかった。山奥のほうがナガでは中心だった。それに、インドに近いソムラではインド側から商品がやってくる。逆に日本では山奥に入ると人がいない。昔あった村も廃村になったところが多い。以前熊野の小辺路を歩いたが、山の中で出会った人間は4日間でたった一人だけだった。日本の山奥のほうがミャンマーの山奥よりずっと山奥だった。インド人の妙にませた子供の絵がパッケージに印刷されたビスケットを食べながら、そんなことを考えた。ちなみに、この国境を超えてきたビスケットはめちゃうまだった。
ジョロのことを書くのを忘れていた。祭りの会場とは違い、ここでは彼もお父さん。いつも歌っているわけにはいかないようだ。それでも数年ぶりの再会、彼のギターと歌が夜遅くまでソムラの山に流れていた。